国と個人

学部時代の友人と、(おそらく)最後の食事をした。彼は春から東京で、僕はといえば京都になる。なかなか会えなくなるだろう。
場所はいつもの「もく」という焼肉屋にしよう、ということになっていた。しかし今日は日曜とあって満員。日曜は予約が必要なようである。こじんまりとしたこの店は、いつも同じお姉さんが店番をされている。ものすごい美人というわけではないのだが、物腰が柔らかく丁寧な人なので、実は自分の中でポイントが高い。どうでもいいけど。
で、しかたなく新大宮に足を伸ばし、牛角で食べることになった。味はそこそこ。店の内装もそこそこ。だが、「もく」の家族でやってますよ感が、自分は結構いとおしい。
韓国に卒業旅行に行くことを聞いた。その理由はいくつかあるのだが、彼の韓国に関する話はなかなか興味深い。いわく、

韓国のことを、自分も全肯定している訳ではない。同様に韓国の人も、日本のことを良く思っている訳ではないだろう。
しかし、自分たちのような世代を見渡すと、歴史は歴史として踏まえた上で、それとはまた別の軸から互いを眺めることができるのではないだろうか。歴史の区切りというのは「責任世代」がきっちりつけなければならない。
というのは、以前ポーランドを旅したときに韓国人の学生と部屋をシェアしたことがある。彼はかなりこのような視点で物事をとらえることができ、戦争の話もした上で、通じる所があった。

国と国との付き合いは、個人と個人の付き合いから始まる。個人と個人の関係のように、うまくやっていくというのはなかなか難しいのだとも思う。
国の歴史は自分に重くのしかかる。韓国の人と歴史の話をすることは、まだ自分にはできない。自分も、旅先で韓国人と部屋をシェアしたことがあるが、なぜかびくびくして、「鍵はフロントに預けることにしよう」みたいな事務的なことしかしゃべれなかった。まあ無理してしゃべることもないとは思うけど。
責任世代に押し付ける、というのは、いろんな含みがあるのだろうけど、それもまた違う気がする。自分の言葉で、歴史を、できるだけ冷静にできるだけ公平に語れるようになりたいと思う。自分のバランスはどこなのか、ゆっくりと突き止めていきたい。
ところで、食事中に家人から電話があった。「次の旅行、バッグは背負うタイプがいいか、ガラガラ引っ張るタイプがいいか。どっちだと思う?」という話。どっちでもいいだろ。好きにしてください。